第4回 呪術廻戦 東京都立呪術高等専門学校(0巻)
呪術廻戦(0巻)と仏教(?)についてお話をしてきました。0巻は今回が最後となります。今回も最後までお付き合いいただけたらと思います。
なお、過去のものは以下のリンクからご覧いただくことができます。
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そうだ、僕はあの時、里香ちゃんの死を拒んだ(乙骨憂太)
乙骨は幼少期に最愛の里香ちゃんを目の前で起きた交通事故で亡くしました。その影響で乙骨には里香に呪いをかけられます。しかし本当はそうではなく、乙骨が「死んじゃだめだ」と思い続けたことにより、乙骨が里香を呪いをかけていたことがわかります。最初の頃に「予測」は立てていましたが、結局、その見立て通りとなったわけです。
私たちも必ず大切な人との別れがあります。親・子供・夫・妻・友人・ペットetc…。そしてその別れはいつ、どのような形で訪れるかわかりません。「死」を迎えることは、否応無しに葬送の儀が執り行われます。最近、コロナの影響もあり葬送の形も大きく変化しているため、改めてこのブログでも後日所見を述べさせていただこうと思います。
誰かが死ぬということは、必ず誰かが悲しみます。それを拒絶したい、夢だと思いたい、できることなら変わってあげたい・・・そう思う人もたくさんいます。死とはそれほどまでに苦しいものなのです。
TVで小さい子が巻き込まれた事故などのニュースを耳にすると、全然知らない子であっても感情移入してしまう。事故現場などで同じくらいの年の子どもを持つお母さんが手を合わせる。それほどまでに1人の死は多くの人に悲しまれるのです。自分1人くらい死んでも誰も悲しまないというのはウソなのです。「もし自分の子が同じ目に遭ったら」どうするでしょう。きっと親はその死を受け入れることはできないでしょう。乙骨憂太が祈本里香の死に対して出た感情というのはきっと普通のことなのでしょう。
生きてる時よりも幸せだったよ(祈本里香)
「勿忘」(忘れることなかれ)という言葉を耳にしたことはありますか。災害が起こるたびに1年、2年と経つに連れてその記憶は少しずつ風化してしまいます。それを今を生きる私たちが忘れず未来へと繋いでいく、それこそが「勿忘」です。
でも、よく考えてみてください。災害の時だけの記憶が「勿忘」なのでしょうか。私たちは多くのご縁が重なりこの世に生を受けました。両親、祖父母、曽祖父母、さらにその父母・・・1人欠けても私は生まれていません。ご縁の繰り返しによって私は今いるのです。仏教ではあまり言いませんが、違う言い方をしたら「奇跡」です。
そうした中で当たり前のように「亡くなったらそれでその人と縁切れた」的な風潮になっており、仏事とは限りませんが葬送の儀やその後の法事や仏事といったものを簡略化する時代になっています。
誰のために仏事などをやるのか。それは生きている私たちのためです。仏事を行うこと、参加することは、亡き人を縁として遅れ先立つ私たちにが仏教の教えに出遇わせていただく機会をいただいているのです。このあたりのことも後日、お話をいたしますが、3回忌や7回忌といった法事を「区切り」とされる方も増えているのが現状です。「区切り」はすなわち「忘れること」です。本当に大事な人を「区切り」といって忘れることはできますか?
まとめ
呪術廻戦0巻は映画のキャッチコピーにもなっている通り「愛と呪い」がテーマです。大好きな人と突然死別してしまった時、あなたはどうしますか。泣いて叫んで苦しむかもしれません。しかし私たちは遅かれ早かれ必ず死を迎えます。本願寺に蓮如というお坊さんがいましたが「朝には紅顔あって、夕には白骨となれる身なり」と御文に残されるほど、人の一生はあっという間です。
私を形作っている事柄(生まれた場所や時代、自分の顔の形など)は誰にも変わってはもらえません。生活環境や状況も、現在のコロナ禍とそれ以前では大きく違うように、社会情勢でコロッと変わります。そのような中であっても、この「生」をよろこび、この命を燃やして生き切るという人には誰しもがなることができそうです。そうでなければ生まれて生きた甲斐もないと思いませんか。そうした生涯をよろこぶ中にも、多くの方の縁あって生きていることを忘れないことが大事なのかもしれませんね。