マンガと仏教ー呪術廻戦①

マンガには多くの名言というものが存在します。
それは時に私たちの心を和ませたり、勇気づけたり、時には感銘し涙することもあります。そのようなマンガの名言を仏教的(宗教的)に解釈したらどうなるのか。そんな感じで思い立ち少しずつ展開してきたいと思います。なおあくまで解釈は私見でございます。作者の先生がどういった経緯で名言を残されたのかは分かりかねますし、全く違う可能性もありますので、そこはどうかご了承いただけたらと思います。

呪術廻戦とは

週刊少年ジャンプで連載中の芥見下々先生作の大人気コミック。

呪い。
辛酸・後悔・恥辱…。人間の負の感情から生まれる
禍々しきその力は、人を死へと導く。

ある強力な「呪物」の封印が解かれたことで、
高校生の虎杖は、呪いを廻る戦いの世界へと入っていく…!

異才が拓く、ダークファンタジーの新境地!
(集英社:週刊少年ジャンプ公式HPより)
https://www.shonenjump.com/j/rensai/jujutsu.html

第1回 呪術廻戦 東京都立呪術高等専門学校(0巻)

0巻は『週刊少年ジャンプ』に連載されている『呪術廻戦』の前日譚となるものです。本編(1巻以降)で出てくる2年生が1年生だった頃の話のため、本編で1年生の虎杖悠仁や伏黒恵、釘崎野薔薇などは出てきません。五条先生は出てきます。主人公は己に憑く怨霊・里香に苦しむ「乙骨憂太」。彼女の呪いを祓うために彼は呪術高専で力をつけていきます。
そしてこの物語がアニメ映画化されこの記事を書いている今日現在、めちゃくちゃ人気で公開初週の興行収入が『鬼滅の刃 無限列車編』に次ぐ大ヒットとなっているのが「呪術廻戦0」です。その0巻から数日に分けていくつか名言を見ていきたいと思います。

芥見下々作『呪術廻戦0巻 東京都立呪術高等専門学校』(集英社)

第1話「呪いの子」より

「覚えとけ 呪いってのはな 弱い奴ほどよく群れる」(禪院真希)

実習で乙骨とペアを組んだ禪院真希が初の実戦を迎えた乙骨(転校初日)に言った言葉です。
この後に「まぁそりゃ、人間と同じか」と話すことからも推測できる通り、私たち人間は誰かと連んでいないと何もできないということを伝えています。私たち人間は決して強いものではありません。1人では何もできない。だからこそ仲間がいる、友達がいます。だからこそ出会った人との縁は大切にしていきたいものです。

ですが!!社会問題となってるイジメは「寄ってたかって誰かをいじめる」という最悪なものです。1人では何もできないから、多くの人が連んで誰かを苦しめる。弱いものが集まって弱いものに嫌がらせをする。誰かがいじめられているのを指摘すると次は自分が対象になるから黙っておく・・・それも結局は間接的にイジメに加担しているのです。最近では聞き取り調査や無記名アンケートがあるので昔ほど言いにくいことは無くなったのかもしれませんが、SNS等の普及によりその姿は呪いのように陰湿なものになっています。

「誰かと関わりたい 誰かに必要とされて 生きてていいって自信が欲しいんだ」(乙骨憂太)

乙骨が呪術高専に転校してきたのは、前の学校でいじめられており、そのいじめっ子を乙骨に憑いた・里香がロッカーに詰めて重傷を負わせたというのが起因となっています。実習中に、真希に「オマエ マジで何しにきたんだ、呪術高専によ!!!何がしたい!!何が欲しい!!何を叶えたい!!」と言われた答えです。

このコロナ禍で多くの方が苦しい思いをされています。ようやく収まってきたと思えば突然のオミクロン。やってられないですよね。でも1人は寂しいし、かといって人と関わりを持てば嫌なことも出てくる、私が人を傷つけるかもしれないし、良かれと思って言った一言がパワハラになるかもしれない。人間はそういった窮屈な中で生きています

仏教には「生苦(しょうく)」という言葉があります。文字通り「生きていく苦しみ」「生まれてきた苦しみ」という意味があります。今回は前者の意味でお話しします。
私たちが学んだり仕事をしたりするのはなぜでしょうか。「いい学校に入り、いい企業に就職して、いいお給料をもらうため・・・」。確かにそうかもしれません。ですがお給料をもらっても1円たりとも使わずにいることは不可能です。死んでしまいます。そう、私たちが学問や仕事をするのは「生きていくため」です。受験生はこの先の人生で使うかどうかもわからない公式を覚え(数学苦手でした)、興味のない科目の重要単語を丸暗記し(日本史の用語集はまだ持ってますw)、就職すれば最初は楽しいと思えていた仕事もいずれかテンプレになってしまいやりたくなくなる。しかしこれらは全て「生きていく」ために必要なことです。生きることは大変なことです。「人生楽ありゃ苦もあるさ」と水戸黄門の曲にも歌われています。人生楽しかないと思うのは、まだ未成熟で世間を知らない子供か、強がっているだけの大人でしょう。こうした生きることの辛さ、苦しさ、しんどさ、大変さに耐えられず、心苦しいことではありますが、日本では約2万人もの人が自ら命を絶ってしまっています(令和2年:警察庁)。数十年前に比べ便利な世の中になりましたが、生きていくことは大変、これはお釈迦様が生きておられた約2400年前も変わっていません。生きていくには誰かと関わっていかなければなりません。それが苦しく思うこともあるでしょう。そして生きてていいという自信を持つのも難しいことですが、苦しく大変な人生、その中で何のために生きていくのか、それを明らかにされたのが仏教なのです。

「愛ほど歪んだ呪いはないよ」(五条悟)

真希との実習中に自ら里香を呼び、危機を突破した乙骨。病院で五条悟に「里香ちゃんが僕に呪いをかけたんじゃなくて、僕が里香ちゃんに呪いをかけたのかもしれません」と自分の思いを告げます。それに対し五条先生が答えた持論です。
里香と乙骨は幼き頃に「婚約」していました。しかし里香は11歳で交通事故死。しかも乙骨の目の前で。しかしずっと一緒にいたいがため乙骨に呪いとして取り憑きます(0巻後半で色々明かされます)。幼い2人とはいえ愛していた、後々「純愛」という言葉も出てくるほどですから間違いありません。しかしこの2人の愛と五条先生の言葉を聞いて「愛別離苦」という言葉が浮かびました。
また「苦しみ」かよ!と思われるかもしれませんが、宗教というのは「苦しみからの脱却」だと勝手に考えているので、苦しみがたくさん出てくるのは致し方ないことと思っていただけたら幸いです。
「愛別離苦」は読んだ通り「愛するものとの別離のつらさ。とくに親子・兄弟・夫婦など、愛する人と生き別れたり、死に別れたりする苦痛や悲しみのこと」(学研 四字熟語辞典)です。先程の「生苦」が四苦(生苦・老苦・病苦・死苦)に数えられ、この愛別離苦は八苦に数えられます。ふたつを合わせて「四苦八苦」と言います。

ところで仏教の「愛」はどういった風に捉えられるのでしょうか。私たち人間は人を愛すると、その人を独占したいなどという執着心が生まれます。そしてその愛する人とやがて訪れる別れは愛がもたらす最大の苦しみと言われます。また誰かを愛するということは他の誰か(いわゆるライバル)を排除することにもなります。私たちがよく知っているLOVEの意味とは異なるのですね・・・それはそれで悲しいですが。。五条先生が言うこの言葉も、<愛は執着に変わりがちで、裏切られた時の悲しさや思い通りにいかなかった時の憤りといったものは、愛を持って接すれば接するほど強烈になるんだよ>と教えてくれている気がします。

「劇場版 呪術廻戦0」公開前ビジュアルポスター
『劇場版 呪術廻戦 0』公式サイト

終わりに

このようにゆるゆる〜っと更新していきたいと思っております。定期更新頑張る予定ですが、基本的に不定期だと思っていただけたら幸いです(笑)

それと最初にも書いた通り、私は学者でもなんでもありませんので、このブログはあくまで私見です。解釈違い等があるかと思います。その点はご了承いただきますようお願いいたします。

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