真宗大谷派では「位牌は必要がない」と言われますがどうしてでしょうか。
長くなりそうな気がしてならないので、何度かに分けたいと思います。
霊や魂の存在
よくお盆ごろになると御門徒さんから、夏の季語じゃないかというくらいテンプレートで聞く言葉があります。
それが
「本願寺さんのお盆は楽でいい。」
「普段のお供えしておけば何もしなくていい。」
まぁ確かに間違ってはいないのですが、本来の意味をはき違えている可能性が非常に高いといつもお話を聞きながら思っています。
本来、お盆のお話をしないといけないのですが、そのお話は来年のお盆近くまで取っておこうと思います(笑)
日本では仏教が伝来する以前から「霊魂」と言うものを信じてきました。そしてのちに中国から伝来した仏教が国内に数多あった土着信仰と融合し、いわゆる「日本仏教」というものが伝播していきました。その仏教も教えの違いや拠り所の違い等で数多に分かれ、その中で霊や霊魂を信じるもの、信じないもの、中立的立場をとるものに分派していきました。そして私たちが信仰する浄土真宗では「霊」や「霊魂」というものを明確に否定しています。
人気コミックスからみる輪廻転生(六道輪廻)
霊魂とは少しずれてしまうかもしれませんが、実は今、私たちの住んでいる人間の世界は六道(ろくどう)という苦しみの世界の一つであり、死後、その生き方によって、また異なる苦しみの世界に輪廻転生すると言われてきました。六道とは地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道(天上道)のことでどれも苦しみの世界です。
せっかくなので(?)人気コミックス『鬼滅の刃』で伊黒小芭内の言葉や生い立ちから考えてみると、彼の言葉の中に
「もう一度人間に生まれ変われたら、今度は必ず君に好きだと伝える」
(吾峠呼世晴/集英社『鬼滅の刃』22巻「悲痛な恋情」より)
と(ちなみに私はここで私一人の涙が枯渇するんじゃないかくらい泣いたので、映像化されたら本当に枯渇すると思います。)いうものがありました。普通は「もう一度生まれ変われたら・・・」だけでいいはずですが、「人間に」という言葉が入っていることで、六道輪廻という世界がそこに見え隠れしています。そこには
「蛇柱(※伊黒のこと)が生まれたのは、人を殺して私腹を肥やす女系の家であった。一族を支配していたのは下半身が蛇の鬼で、蛇柱は稀有な男の生贄(※男が生まれたのは370年ぶり。しかもオッドアイ)として座敷牢で育てられていた。五人の姉妹がいたが姉二人は蛇柱が逃げ出した際に殺害され、妹三人は生後間もなく蛇の鬼に献上され食べられている。また当時の炎柱(※誰かの説明はないが、時系列的におそらく煉獄槇寿郎)に従姉妹と引き合わせてもらうが、罵声を浴びせられ心に傷を負ってしまう」(吾峠呼世晴/集英社『鬼滅の刃 公式ファンブック 鬼殺隊見聞録・弍』101ページ・※は私の註釈)
とあるように彼の生まれ育った家系が関係していると思われます。
「俺は人を殺して私腹を肥やす汚い血族の人間」
「強奪した金で屋敷を構え、飯を食らい、する必要もない贅沢をする」
「恥を恥とも思わない」
「業突く張りで見栄っ張りの醜い一族」(いずれも『鬼滅の刃』22巻「悲痛な恋情」より)
という血が伊黒小芭内という人間に流れているからこそ、彼自身、死んだら自分は間違いなく六道輪廻の習いによって、ピュアすぎる甘露寺蜜璃とは違う世界へ行くのだろうという思いがあっての「人間に生まれ変われたら」という言葉なのかもしれません。そんな蜜璃ちゃんも最期(コミックス23巻)は伊黒さんに「人間に生まれ変わったら、お嫁さんにしてくれる?」と言っているので、蜜璃ちゃんも輪廻転生を繰り返すと思っているのでしょう。もしかしたら令和の現在もそうですが、大正期って結構それが普通の考え方だったのかもしれません。ちょっと調べてみたいと思います。しかし蜜璃ちゃんかわいいな。
浄土真宗と輪廻転生と霊魂の私解(あくまで個人的な解釈)
実は現代では「ブッダ(お釈迦様)の教説は輪廻の存在を否定するものである」という論調が少なくないといいます。この辺りに関しては私も無知にほど近いのであまり詳細に書くことはできません。意外とウィキペディアとかの方が詳しかったりします^^;
一般的に浄土に生まれたいと願うのは、その環境が修行に適した場であり、その修行が後退する心配の無い世界(不退転の位)であるからと理解されています。迷いの世界(この世)から抜け出し、浄土に生まれて(往生)、それから修行を勧め、仏になる(成仏)という考え方です。
ところが浄土真宗では、あの世とかこの世とか関係なく、信心を得た時に、必ず仏になる身に定まると説いています。浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、『教行信証』「信巻」で
臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す
と述べられています。親鸞聖人は経典などの読み替えを重ねてきました。そしてこの「信巻」の言葉が「凡夫が仏となる教え」であることを明らかにした言葉なのです。その読み替え等の大事なところは、以下のリンクをご参考にしていただければと思います。
https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20181012-002.html
http://www2.saganet.ne.jp/namo/sub9295bukkyouhajoubutuno.htm
往生即成仏を説く浄土真宗(※宗派によって見解の違いはあります)では当然のことながら、他の世界へ輪廻することはありません。そしてもちろん私たちの先祖もまた仏さまとして浄土におられるわけですから、霊魂というものも存在しません。私たちが常にお内仏(お仏壇)に手を合わせるのは亡き先祖の魂を鎮めるとか、そういうわけではなく、亡き人はもちろんのこと、さまざまな出遇いを縁として阿弥陀如来の教えに出遇わせていただいた感謝の気持ちで手を合わせるのです。お盆に野菜で動物を作ったり、精霊船を用意したり、玄関先で火を焚いたりしないのも、ご先祖という最も身近な仏さまが常日頃から私たちにはたらきかけてくださっているからと考えれば「楽」とか「何もしない」というわけではなくて「いつも通りで良い」と考えることができますね。法事を忘れたりした後とかに何か不吉なことが起きたら私たちって「先祖の霊が怒っている」とか考えますが、そんなこともありません。
そして阿弥陀如来の極楽浄土に往生したものは、そこでまた共に出会わせていただけます。これを倶会一処(くえいっしょ)と言います。必ず浄土に往き生まれ、仏にさせると願われ「南無阿弥陀仏」と私たちにはたらきかけてくださっています。「南無阿弥陀仏」は呪文ではなく「私に任せよ、必ずあなたを救う」という阿弥陀さまのおよび声、願いなのです。『鬼滅の刃』の最終話では小芭内・蜜璃っぽい夫妻が定食屋を営んでいる描写がありましたが、僧侶である私の解釈は2人はきっと輪廻転生しておらず、浄土で再び出会うことができていると思っています(あくまで僧侶としての解釈です)。だって近くにめっちゃ「南無阿弥陀仏」って言ってる人いたんですから・・・。
位牌とは
霊魂や輪廻転生について私解をしてきましたが、では位牌ってなに?という本題に入ります(次回からだけど)。
位牌というのはそもそも中国の儒教文化が日本に伝わり、仏教と融合したとも言われています(諸説あり)。そして位牌には「霊が宿る場所」とされています。「○○家先祖代々之霊」などと書かれていたり、掘られていたりするのはそういった理由かもしれません。
でもよく考えてみてください。真宗大谷派の葬儀式でも他宗派様と同様に「白木の位牌」を使います。またお内仏の中に法名が掘られた黒色や金色のお位牌もよく見かけます。さらに言えば私どものお預かりしているお寺の御門徒さまの多くは「繰り出しの位牌」を使っていらっしゃいます。それが良いのかダメなのか。代わりになるものはあるのか?と疑問は尽きませんが、これだけ長く書いてきてようやく本題なので、詳細は次回にしようと思います。
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